菅原神社由来
山紫水明の地この長谷町は早くから開けていた。
能登願生寺文書によると、嵯峨天皇の弘仁年間(810年から820年ごろ)天台の祖、最長が北陸巡化に際
し、ここに願生坊を建立し、高弟勇哲を留めたと伝えられている。
往古より集落が三ヶ所に別れ、各々氏神を祀っていた。
即ち南方波佐谷との境に天満宮、東部山麓寺谷に白山社、西山の麓に八幡社があった。
天満宮は菅原道真神を祀り、古来学問の神として崇められ、平安末期には長谷菅堂に祀られていたとい
う。
戦国時代には波佐谷城主、宇津呂丹波は城の守護神として崇敬した。
加賀藩前田藩政のとき、前田家の祖先は菅原家であるとして天満宮を敬い、特に三代藩主利常は小松
在城のとき、当社に調度品などを寄進している。
時が経つにつれ、集落は最も生活に適した現在の地に集まってきた。
明治14年に三社を合併し、菅原神社と改称した。
明治41年5月、耕地整理施行に際し、現在の社地に、菅原神社を中心に、相殿社として東に白山神社、
西に八幡神社を御遷座した。
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